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2018.08.21(火)

8月の法話

われ以外みなわが師 吉川 英治

今月のともしび掲示板は、吉川英治の『新書太閤記』の一節に出てくる言葉です。 秀吉が、信長だけでなく、どんな人からも、自分より優れた何かを見出し、自分のものにするということを表現したものです。 「われ以外みなわが師」と、ここに「われ」「わが」とあるように、他でもない自分自身が、この言葉から問われているように思います。 確かに、この言葉を聞くと、学びの意識や謙虚さを認識させられ、日々の心がけ、気の持ちよう、さらには、“生きる姿勢”というところまでも意識させられます。

しかし、そこに問われてくる自分の“生きる姿勢”は、どのようにすれば得られるというのでしょうか。 それが問題なのです。
結論から申し上げますと、自分の力によって、自分の“生きる姿勢”を得ることは不可能ではないかと思うのです。

そもそも人間は、含蓄のありそうな言葉や教えを聞いて、一時的にやる気が出るということや、自分というものを自覚してどうこう思う、行動するということはあると思います。ですが、それは人生という時間軸の上では、ほんの一瞬ではないでしょうか。

太宰治は『斜陽』の中で、「人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているではないでしょうか。」と、人間を描写しています。 人生において人間の感情の中にある、また、感情にも現れないものをも含めて、“無自覚と心の揺れ動き”によって、人間は、悩み、苦しみ、迷うのです。 この“無自覚と心の揺れ動き(人間である自己の本質)”によって、“生きる姿勢”すら、結局、私には不明のままなのです。
やはり、明らかにしてくださるのは、人ではなく、仏様であると感じます。仏様の摂取不捨は、悩み、苦しみ、迷いが無駄ではなく、すべて意味あるものとして人生が開けてくるという感覚を私に与えてくださると思うのです。 親鸞聖人は、以下のように詠われています。
釈迦弥陀は慈悲の父母(ぶも)種種に善(ぜん)巧(ぎょう)方便しわれらが無上の信心を発起せしめたまいけり(真宗聖典四九六頁)

仏様が人間等の姿になって、自分の機(あり様)に応じて、目の前に現れて下さり、自分を気づかせて下さるのです。自覚させて下さるのです。自分で自覚するのでもなく。他人が自分を自覚させるのでもなく。仏様が他力となって、自分を気づかせ、自覚せしめてくださっているのです。それがまさに、仏教による私の自覚であり、「われ以外みなわが師」と頂ける世界が開けるのだと思うのです。

江戸川本坊 川満 康裕