2018.12.01(土)

12月の法話

「如来よりたまわりたる信心」『歎異抄』

仏さまの教えを聞いてまいりますと、仏教の心がよくわかってくるどころか、いかに普段の私のものの考え方、見方が間違っているかが知らされてきます。「信心」ということが、仏さまの教えをよく理解して信ずることとするならば、私にはとても大変でおぼつかないこととなります。

私の心は、いつも忙しさにとらわれて何が本当のことなのか、何が偽りのことなのかと思い悩み、いつも安心できない日々を送っているように思います。どうでもよいことにこだわって怒ったり、ねたんだり、悲しんだりしながら空しく時間だけが過ぎて行きます。良心に従って行動しようとしても、結局自分の都合の良いように行動しているだけではないかと自問自答を繰り返します。

私は子供のころから、「自覚せよ、反省せよ、もっと努力せよ」と何十回、何百回となく聞かされ、その都度しっかりしなければと自分自身に言い聞かせてきました。それは私の事を本当に心配してくださるまわりの方々の優しさと愛情の賜物であろうと思います。しかし、何度言われても善くなるどころか、また同じことを繰り返してまわりの人にご迷惑をおかけすることしかできませんでした。

そんな私に対して、親鸞聖人は、それはおまえの「信心」が足りないからだとは言われないのだと思います。ましてや、自覚が足りない、反省が足りない、努力不足だとは決して言われないでしょう。

親鸞聖人は、師、法然上人の「ただ念仏」の教えを語られた人です。どんなに努力しても努力しとおすことができない、反省しても反省を貫き通すことのできない凡夫のままに、目覚めた人の信(まこと)の心に出遇われたのが親鸞聖人であろうと思います。私の心は、どこまでも「迷いの心」です。この私の迷いの心と、目覚めた人の心のめぐりあいが「信心」ではないかと思うのです。それを『歎異抄』のなかで、「如来よりたまわりたる信心」と教えられています。

仏さまの教えを聞くことは、普段のままでは気づかないことに気づいてほしいという願いが込められていると思います。病気になってはじめて、健康な体に感謝できたということがありました。「あたりまえ」の生活は、本当は「有り難い」ことであるということに気づかせていただけるような聞法の歩みを続けてまいりたいと思います。

船橋昭和浄苑支坊 黒澤 浄光

手紙寺證大寺しょうだいじ